あるがまま~徒然日記~

思索的な悩み、抽象的な想いなどを文で表す為に始めました。

地下室の手記

苦しい。ただ苦しい。身構えるな人は何も思ってないんだぞ。人を傷つけてはいけないなんてルールなし。
何を恐れてる。どっかの芸人の如くバカヤローコノヤローいってやればいい。
もがいてる。ひたすらにもがいてる。苦しい。

うぅそして明日来る。死ぬよしもなく刻々と時は過ぎる。

あぁわが身この何かにつけて置けない。
この世は苦しい。儚いなんて綺麗事よ。僕はもがいてる。
もがいてる。
全てが終わるのに僕は何故生きる?
苦しむからだ。苦しむから生きるのだ。

助けを求めてももう駄目。哀れな身だ。消えたい。

書きなぐるとはこういったもので僕はいつになくもがいてる。
神はいるのか?発展するとまたこの馬鹿げた論争に区切りがつかない。
論争とは僕と僕の論争だ。

馬鹿げてる、はぁー馬鹿げてる。廃れるとはこういうことか、うむ、左から右へ下から上へ前から後、どの角度からみても馬鹿げてる。

死なせてくれ。自分の生きるエネルギーは何処にいった。
脳が腐っていくよ。
みんな腐っていくよ。
生まれてから死ぬまで、ゆりかごから墓場まで苦しむのが人生よ。

なんて厭世的な!
うわーん。ここから出してくれ、ここは地下室だ。地下室だ。

僕は扉をノックしている。架空の扉をノックし続けてる。
誰かっ!いないのか。誰も、いないのか。ここは墓場か。

ポッコリ、顔出せたら僕は幽霊か?

うわーん。
誰もいない。誰もいない。ここはどこ?あれは何?何はあれ、お金なんかはちょっとでいいのだ!
ユニコーンじゃないだろ、バカヤロー。
ほら、出たバカヤロー。
ビートたけし風に、

あぁもうどうだっていい。
どうだっていいんだ。
ここは地下室だな。

メロディ、さぁ歌ってくれ、響け。
このとびきりな苦しみを解放してくれーーー!

死について

例えば僕が死んだら世界は終わるのか、いや世界は続くだろう。僕の死によって世界が終わるのならそれは世界死であって世の中の万人が消えるどころか万物が消えることを意味す。
ただ僕の死は僕が無になることなら世界は終わるとも言えよう。
世の真理など解るものか。自分がいて世界をみて、ああ世界だな、と思うのであって自分がいない世界は世界ではないはずだ。
心を病むとこんな変哲なことを考えたりする。
死とは何か、学者がたくさんそれにまつわる本など出しているであろうに読んでないわが身。
だからこそ真剣に死とは何かを問えるとも言えるかもしれない。

自身が例えば自殺したとして世の中の何が変わろうか。然し何らかのここに生かされる意味があるのなら死はその意味を終えたか、意味を履き違えたかであるのか、
そんな真理解りもしない。

いつか死ぬ。その現実に僕は恐れているわけではない。
ただでは何故生きているのか、生かされているのかなど解りもしない。

単極的に生きれない。複雑だ。

昔の下書き。

SNS上で僕はどう映っているのか、

ちょっと考えてみたら演じという点において無自覚なわけではない。何か現実で言えないようなこと書いたり、なれないような自分をやっている。馬鹿なんだと思ったりしたがそこに対して否定感はない。馬鹿になりたいとさえ思うから、実際どうあれつけるクスリなどないはずである。Twitter上で馬鹿にみせるため演じ続けている、という感覚はある。たからといって演じているその自分の本来など知らない。
だから仮面を被っているというほどの意識はない。何処かに病的な自己モニタリングをしている感じがあって妄想を抱いたりしているのかもしれない。

自意識の過剰なんて、他者と比較には出せないから検討つかないが馬鹿をやってやろう、とか云うのはありそうな話である。悪い言い方をすれば道化である。

ここは趣味の場であると僕は思っている。自己プロデュースしてるような思い込みと毒抜きという変な趣向、趣味になったもんだ。


同時にSNSをやる動機としてもっともらしいことを言えば、専門でなく一般の情報みたいなのや考えを知りたいというところだ。

話が逸れるが著名な方の意見ばかりが情報であるという先入観があるとするならば、それはかなり古い考え方だと思う。
時代が変容するに連れ、自分達はたちは努力してきた、という誇り、プライドは邪魔になるだろう。少しずつ個人に価値観の比重が強まるような主観的ではあるがそんな時代になってきていると思う。そもそも価値観が個人にというと変だが、いわば個人主義的な時代になってきているのではということで、また膨大な情報がネットなどからも行き交い誰でも知識としては専門家みたいになってしまえる、そういった時代なんだと思う。然し、それだけに偏った考えになっていったり途端にかたくなる気がする。気がするだけであるが。
「芸術の大学なんて、オカシイ。」「芸術とはきれいであってはならない。・・・」
「今日の芸術」著、岡本太郎
芸術と聞くとえらく気をひかせるが
固定観念、先入観が僕にもあるんだろう。バイブルとして、みても違うのだと思うけど。ある程度批評しないともうこの人に信仰してしまう
最近は怒りの感情を呑み込むことを意識している。頭にきたら、「これを胸にしまっておければ今度は何か良いことがやってるの来るのだ」、と強く暗示をかける。苛苛もおさまれば病み上がりの時に安堵してホッと息を吹くような気持ちになれることもある。耐える、耐える、
耐えるのだ。

療養のはしまに。

僕は今、静養中である。詳しいことは書かないがある施設へ入っている。
以前のブログ記事からも判ると思うが精神の方がやられた。つまりそのような意味での静養である。

...果てしない闇が誰にでもあるかもしれない。それは全く漠然としてたり、つかみどころの無いものでもあるだろう。かといってそれでいて生きている。生きている、いこうとする理由があるのだと思う。それは何らかの欲望や向上心だったりするかもしれないし、癒しなどが何処かにあるからかもしれない。
僕らは盲目でない心を持っているはずだが見えないものの方が多い。言い換えれば解らないことや知らないことが果てしなく多いと思う。少なくとも僕はその一人だ。
たまに自信のある人なら解ってると胸を張ったり見栄を張ってもこの果てない宇宙を前に何が解るのだろうか。それを科学が解き明かしたがってるし、宗教も真理をみつけてしまってるけどほんとのところは解らない。僕は日本人だからか一元論者でないし、ほんとに多種多様な千差万別な多角的な見方があるだろうと思うし何にも常識すら解ってないかも知れない。
それでも生きていく理由はあるはずだ、と思ってる。それを見つめていく意義や意味とかよりもそれを見つめていかないと生きていけないだろう。見つめる、というよりも持っていたいと思う。だから見つめる。

辛いことも多いが、それは表現仕切れない程あるがその闇もやがて明けてくるとかいう綺麗事に聞こえるようなことでも信じていく。
それもまた、ひねくれな自分に見合った台詞ではないだろうけど、とりあえずそんな心境だ。って文字化してるだけでどこまで本音を書けてるかな、とは思ったりするがまあ僕自身の心身の為に書いた、が見合ってるかと思います。
まとまってないな~。(笑)

関係妄想

関係妄想という言葉を本か何かでちらっと見た。そのこと自体詳しくは思い出せないけど病的ないわゆる精神疾患の方に起きることがある、

主に「統合失調症」や「双極性障害」、僕は勉強不足だと思うので合ってない、と思われる節もあるかもしれないが、とかくそういった脳の病気の症状として表れることがあるとは言える。

よくそういった精神疾患を気持ちの問題とか、メンタルが弱いとかいう意見を持つ人も多数いると思うが僕は違うと思っている。
科学的根拠がある、とかないとか言い出すと混乱しそうなのであくまで僕個人の考えとして見ていただきたい。

そもそも根拠などまだ誰にも見出だせてない領域だと考える。
つまり、「気持ちの問題」や「メンタル」についても同じである。
そこで僕の意見として本人=当事者が何かに気付いていくという視点を持ちたいと思うのだ。

周りがあれこれいって混乱を招くよりもそれに動ぜず生きていく術をどう身に付けていくのか、
そこで関係妄想という苦しみをどうたっていけるか、等と考える。

関係妄想とは、人間関係等から起きることであるが妄想のためおそらく人と関わってないときも何かにつけて考えたり、とらわれたりしているのではなかろうかと。

だから頭も疲れるし、苦しい。
健康であればこれもおそらくだがある程度日常の習慣がついていて余計なことを考えない風になっているのではないか、またはその暇がない
場合もあるかもしれないが一応、妄想はほとんどない場合と想定する。

その流れでいくと僕のなかで行き着くのが生活習慣を整える。あるいは作ることが大事かもしれない。
脳の病気という考えは変わっていないが、「障害だから」、で回復しない等とは思わないでいたい。
これは僕の願いである。

試行錯誤生きづらさを巡りどう本人の気付きを、僕自身も気付きを見出だしていけるか、一種の認知療法の立場に映るかもしれないが兎に角、
治療という名目も若干の違和を隠せないのです。

ぼんやりとした不安。

「ぼんやりとした不安」

この言葉は芥川龍之介の自殺の動機として聞いたことがある。私は彼の作品や生涯について詳しくないのであまり口を開けないが、この「ぼんやりとした不安」については本やネットで知り、興味を抱いたのである。

私は中学生くらいの頃から学校に馴染めなくなり体調を崩したのであるが結果的に病気を発症してしまった。
何とか高校を出たのだが頭が回らない、もやもやした感じ、とにかく疲れやすく卒業後、軽仕事をしながら病状の回復を求めた。

診断が診断なので、家族も重く受け止めていただろうし、僕自身限界を感じていて死のうと考えたり、入院したり、自分が結局「何がしたいのか」そんなものは見えなかった。

親は勤勉に働いてたし、病気になったこと等から急いで働くことをすすめられなかったと思う。

両親の支援があって何だかんだ生活はさせてもらってるがさて、これから自分はどうしていくべきか、或いはどうしたいか、それが見えてこないのだが、何とか自立したい願望は肥やしている。

今は親元を離れているが、兎も角自分の芯を持って流されずに生きようと思っている。

それで芥川の「ぼんやりした不安」というのは確かに自分にもありそうだな、と思った訳である。
勝手な推察だが将来へとかよりもっともっと漠然とした不安だったのではないだろうか、と思う。
「ぼんやり」この表現が何とも怖いのだ。
自分はあれこれ考えてはいるが結局ぼんやりとか、もやもやとか凄く曖昧な悩みを抱えている。

至った結論は自己本位になる、ことなのかな、と考えている。

もやもやを消し去ることが回復の糸口になりそうでもあるけどそんな単純ではなく、複雑だからこうなっているのだと思うが自己本位、これがきっと道なのではないか、なんて思ってて
「自分は何がしたいか」「どうなりたいか」
きっとこれが欠けているんだろな...と個人的な話になってしまいましたが何処か今の20代(自分の世代)にありそうだなとか考えた訳です。
僕だけに限らず、そういう想像はしています。勝手ですが...
もやっとしていますがこれで終わります。
m(__)m