あるがまま~徒然日記~

思索的な悩み、抽象的な想いなどを文で表す為に始めました。

始まりの歌

明日と云う風が

遥か遠くから吹いていて

未来の姿をした自分達が

良いか、悪いかという

二点でなく そこに

色んな自分が眠っていて

そのすべてを享受していく


どんな未来が訪れても

どんな醜い自分であっても

今から云おう

受け入れる

もう理由(わけ)もなく

嫌悪したり、

逃げ惑うことはやめよう

この瞬間から始まる音


夢と云う理想が

遠く遠くの雲の上にあって

現実の姿のままの未来達が

呼ぶのか、呼ばないのか

たった二つでなくて

広がる世界がそこにはあって

そのすべてを受け止めていく


どんな夢を描いても

どんな離れた自分であっても

今謳おう

あるがまま

もう問題を埋める為に

あがいたり、

もがき苦しむ必要はないから

この瞬間から始まる詩


受け入れることが

そう容易くないのは知っている

それで逃げてばかりの自分

型だけでも構わない、

いつからでも変えていける

スタートはこの歌からにしよう


どんな未来が訪れても

どんな醜い自分であっても

今から云おう

受け入れる

もう理由(わけ)もなく

嫌悪したり、

逃げ惑うことはやめよう


どんな夢を描いても

どんな離れた自分であっても

今謳おう

あるがまま

もう問題を埋める為に

あがいたり、

もがき苦しむ必要はないから

この瞬間から始まる詩

この瞬間から始まる音

ダイバー

哀しみの底という深い海の中へ潜水するダイバー

自分の暗い部分をさらに自分へと向ける

苦しみは尽きない そう思えるだけのほんのゆとり

そんなゆとりが自らを探索する力となり

心は深い方まで潜水していく

それらの苦しみがもし

癒えて雨上がりにふと虹をみたような体験を出来たのなら

僕は幸せを感じられるだろうか

きっとそんな一瞬を味わいたいから

僕はダイバーになって暗い心の底にある何かを探している

言葉の捉え方について

「何でも疑問を持てばいい、というのは好奇心とは違う。言葉というのはある種、それって本質的にどうなのよ、ということの連続。汲み取ることが容易くはなくとも文章として理解出来る、これだけで充分なことも多いと思う。」

それなのに人は言葉を吟味する能力を持ってるし,意図したことを伝えるはずの言葉が印象に左右されてく。

「真面目」「馬鹿」の言葉について以前こう述べた。

「真面目といわれればそうなり、馬鹿と呼ばれたらそうなり。そんな気がして相手にとってどの言葉が適切でよろこぶことか。少なくとも馬鹿とか、相手にとってマイナスな言葉はなるべく使わないようにしたいと思った。」

このように言葉は人に影響を与えるとも思っている。そういった意味で言葉を扱う側はある程度吟味し,相手に配慮すべきかもしれません。

ただ受け手が誤解や余計な深読みをしてしまうこともある。

「ひでえもんさ、人間なんて。」

自分が思ったことであるが「人間なんて」と吐き捨ててしまえば単なる悲観よりももっと何か大きな人間への不信を意味するように思えてくる。

でもこの言葉は一過性の感情であることに後から気付く。そしてこの言葉に疑問を持つ必要も意味も無いと考える。何故なら周りが見えていない状態だったから。だから感情に乗せてイライラをぶつけているに過ぎなかった。後こう述べる。

「信頼って一気に崩れるのだと聞いた。そう思う。匿名性で適当にやってる分は、気にしたりしないがいざフルネームで名刺のようなものでやりとりしてたら言わないであろうことを言ってしまう。発散感半端ない。」

「信頼」に於ける言葉の持つ力はあるが誤ると一気に崩れるのだとの解釈。そして自分もまた匿名ではあるが以前の様に言葉を吐き捨てているのです。

そして少し以前のだが

「言葉による抑圧は時として暴力よりも惨いことにもなりうると感じた。言葉であれば許されると思ったら大間違いだろう。倍返しを食らうことだってある。恨みをも買うことだってあるだろう。自分の発言にリテラシーを持つことが自分にどこまで出来ているかは客観的視点に立つことだろうか。」

言葉の抑圧については相手への信頼どころではない。言葉の抑圧とは相手を責め立てるようなものだと思っている。なので発信者はなるべく客観的に冷静であることが求められると思うのです。リテラシー(吟味)といえばいいだろうか。

そして受け手も感情が一過性のものであるかどうであるかを見極めていきたいものです。

最後に

「言葉の表現は娯楽のひとつにもなる、僕自身そういう使い方になっている。もっといい使い方ないかと思ってるんだけど、それはそれでいいか、とにかくだる~いから....もういいやっ!SNSは娯楽だ。」

おそらく近年はそういう風潮だと思っている。一時「KY」=「空気読めない」という言葉が流行ったがこれはまさにその象徴とも思える。「話に乗れない奴は乗るな,周りを濁すな」という言葉のテクニシャンの極みでは無いだろうか。誰もがそういった周りに合わせる,簡単にいえばノリやツッコミ等が当たり前の風潮になった,とも言えるのかもしれません。

僕自身はそういったのは苦手だがその舞台がインターネット,特に若者の中で蔓延し始めているかもしれません。それが悪いかと言いたいわけではありませんし,僕もその中の一人なのかもしれません。

そういったことで文をまとめますとシンプルに「伝える」ということだと思います。その為に使っていきたいと僕は思っています。「共有」とかいろんな要素は有るかと思いますが,こうやって投稿するのも日記ではなく何気に相手がいてそこに動機が生まれるからだからこそ「伝える」のだと思います。それは敢えて「伝えよう」ということではないけれど自分はそうしていくつもりです。

全体として危険な要素もあるし,また捉え方によって変わるんじゃないかなというお話でした。

 

 

 

 

遠吠え

人というものはやはり人を選ぶのだろう。

印象,内面,職業,学歴...



世の中には秩序というものがあって規範やルールがきっと



どこかしらの場所にはひっついている。

或いは自然に成り立っていると思う。





それを乱す人,外れる人,着いて行けない人



学校,職場ではきっとそれも起きる事である。

あくまで何故そうなるのかまで答を導きだせないと思う。



でも人間関係,集団の中では一過性でなく持続的に浮いてしまう人は



現れる様に思う。



そういった人達を「がいじ」とかいう様に言う人もいるのだけれど(いたのだけれど)



何故,集団の中で差別が起きてしまうのか。





僕はそうして学校という場は何なのか!

ある方はいう。

「勉強するために行く場だ」

ある人はいう。

「社会でやっていける力を養う場だ」

ある者はいう。

「当り前じゃないか」



そうしてある方々は



大学へ行き勉強を重ね,専門職につき

ある人々は



就職し,社会人として生きて行く。



ある者々は



従順に生き,家庭を持てば子どもを当り前の様に学校へ通わせる。





差別というものは挫折者の遠吠えに過ぎぬのか。

別に意図的に差別的扱いを受けなくとも

当り前に疑問を呈する人は永遠にその問いを引っ掛けながら生きて行くのか。



















統合失調症とネットについての徒然探究

相変わらず,そして久々に真面目な文章を書くのだが,結局の所は“自分個人の内容を書き出す”事は“吐き出し”でもあり,或いは“自分についての考察”でもあり,また“妄想”と化す事もあると思う。今時で言う“ガチ”な文章をSNS等に投稿する際―そもそも“ガチ”という言葉を小馬鹿に扱うのに疑問符だが時と場合による―自己満足に終わっている面がある。

 

黙々と文章を連ねて“客観的に読みがいがあるか?”と問われればまず読まれているだろうか,から始まり反響が有るか無いか―“いいね!”とか“コメント”が有るか無いか

真面目に書くとすればそこの部分―客観視―がどれ程出来ているだろうか。

 

はなから適当に自己満足でやっているのであればそれはそれでいいと思う。逆に見返りを求めずにやるのが気楽でいいし,求めるだけ本気になって書くまでしなくてもいいと思う。

 

そもそも文章で見返りを求めるなら文章を扱う仕事に関わるのが適当な事で僕が真面目に書くのは先に書いた様に“吐き出し”“考察”“妄想”だったり,

 

ネットを趣味の範囲でしかも限られた人に見せているに過ぎないのだ。

 

...お気付きの方もいるかもしれないがもう自分がこころの病気である―あくまで診断で何をもってこれはこころの病気で何病であるかは主治医の医学的根拠を信用している―と表にしている。

 

僕は「統合失調症」という一般に何処まで聞き慣れているか感覚的に分からないが100人に1人が確率的に患う精神疾患である。

昔は「精神分裂病」と言う病名であったが,精神が分裂するのか等と言った恐怖や差別を生む等として病名(名称)が「精神分裂病」→「統合失調症」へ10何年か前に変更されている...

 

ではその趣味の範囲で療法的に扱えないかという活用に至らないだろうか,と考えている。

 

当事者同士,或いは孤独にひたすら“吐き出し”でもいいと思う。

 

ただ“吐き出し”については言い換えれば“感情の文体”なので迷惑や中傷,はトラブルにもなりかねない事なのでそこにも配慮出来なければネット参加は避けた方が良いのかもしれないと自戒も込めて思っている。

 

少なくとも当事者として―もう病歴があるので当事者として名乗るが―ネットよりも実際に…が望む所であり,ネットも程々―言ってみれば何事も程々かもしれないが―に収めたいが一週間の内数日は出ない日があり,一応ひきこもりであるといいつつ出掛ける場所,否定する様に少しづつ動き出しつつあるのだが,,出掛けない日も23日は一週間平均で見ればある。

 

その中で何が出来るか―人によっては思うだろう,そういう暇があって,と―を考えると同時に“その病気”の症状や困ることは軽減出来る様に……

 

とにかく複雑に入り乱れるのはもしかしたら病気に捉われているのでは?もっとシンプルに五感を使って楽しもう,何かしてみようという発想も有りかなと思うこの頃。

 

 

例えば「絵を描く」「ギターを弾く」「散歩する」僕にとって身近な所から

 

でも本業がある,よりどころがある,それがきっといいのだ。

 

あくまでネット(SNS)は趣味の中の限られた人との情報共有ツールである。

 

本業的に活用を選ぶならエンジニアや詳しい人がやれる,やる事で

 

療法的に扱えないか,可能性を導き出せないか―当事者等との共有―という視点で見てはいる。

 

 

集中力も途切れて脱線しかけるので切り上げるが

 

...「統合失調症」と聞いて知らない人が知ると何だか恐ろしい,怖いと思うかもしれない。それを表にしているのはある意味プライドを捨てているとも思う。

100人に一人という事と若い時に患うので学校や学年に一人はいるともいえる。

しかし時代と共に良くなる例(寛解という)も見受けられ(メディア等から得たものだが)決して悲観的にばかりな病ではない。

 

絶望と同時に希望もあると僕は思っている。

 

活字コンプレックスのため本を買ったはいいもののかなりマイペースな吾輩であった。

意義を持たないSNSについての意味の探究

 

 

 

近年のインターネットの普及により家にはパソコンどころかスマートフォンなどの携帯端末からも容易にそこへアクセスする時代になりました。

その中でもTwitterfacebookなどのSNSをコミュニケーションツールや情報収集として使われている人は多いのではないかと思います。

そこにはなんらかの意義を持って登録した人やただ興味に惹かれてやっている人もいると思う。僕はどちらかというと後者だ。僕には正直なところこのSNSに意義を持っているとは言い難い。投稿したりすることでたまに人と会話したり考え方が多少広がるかもしれないと思いつつ基本アウトプットでやや無意味にも思う。

無意味に思うが故,過去の投稿は一体何だったのか羞恥な思いにも感ずる。

だからいっそのこと,断捨離のようにSNS系列一切削除をした方がいいとすら思うこともある。責務あることを担っているわけでもないので無責任なことを容易に発してきた節がある。

誤解も招き易いし,それぞれの価値観がありその時の一時の感情によってはトラブルに発展することもありうるだろう。

 

こういったインターネットのSNSにアウトプットばかりしていると後後,後悔することが多い。

極端な言い方かもしれないがそれが行き過ぎるとおそらく依存症のような形に捉われることもあるかもしれない。

それがないと不安とか逆に何をしているのかという後悔の念のさらされたり,特にFacebookは匿名性ではないので(設定次第では変わるのかな?)実際の交流がないにも関わらず周りとの関係までをも意識せざるをえなく関係性によっては常常意識し,自問するようなことを繰り返したりする。

こういったことには至らないようにしたとしても果たして意義を持ってないでSNSを続けることに意味があるのだろうか。逆に意味を見出せるのだろうか。という個人的に身勝手ではあるがこのような論点に立ってみる。

始めから意義を持ってやっていればその必要に応じたやり繰りもあるがただ興味本位で始めてしまったが故に何も残らないようなただつぶやくだけで流してその情報を保存するでもなくやり過ごしている人はいると思う。少なくとも僕は自信持って意義があってやっているとは言えない。

何らかの必要性があって期間限定でやる予定とかそういった考えは僕には毛頭なかった。

関わりを持ってみたいということが僕の大方の動機である。

 

前述に意味があるのだろうかと触れたが,一つに意味と無意味はとても難しい話だと思う。ある人には人生にとって無意味などないといえば別では人生にとって意味などないとか,間をとって人生には無意味な事もあれば意味のある事もあるという人もいると思う。そもそもそういうようなを意義を感じないことをしていても考えないことがで最もかもしれない。意味とは思春期頃に思ったりする「何故人は生きてるんだろう」とか「なんで俺は生きてるのだろう」から始まると思ったりすると思うが次第にそういったものは考えなくなるものかもしれない。でも時に意味を考えることで無意味の存在を考えたりするのではないだろうか。

 

そこでSNSについてだが意義があると意味があるとは,意義は何か目的があるかないか必要だからやるかやらないかを明確にしていて,例えば自己の職業についてのPRとか情報収集,仕事仲間との連携的繋がり等々だと思っている。それに対し意味とは自分がどう捉えるか,人それぞれ場面場面での認識に過ぎないということだということから「何やってんだろう」とか「無意味なことやってるな」とかは思うのはたぶんアウトプットのやり過ぎあるいはインプットの行き過ぎとかで調和の崩れによるものだと思う。だから意味と無意味を考えてしまう。こういったことは生きづらさに繋がってくるのではと考える。僕にとってベターだと思うのは“人生においてすべてに意味があると思う事―無意味な事はない”ということだと考える。そして他愛もないやり取りや関わりがアウト,インのバランスには程良さを感じる。或いは“人生において意味というものはない―無意味であると割り切る事”。個人的には前者の方が楽観的ではないか思う。

だから僕が無意味に感じているしまうのも一方的なものにしか感じないからかもしれない。もし意義を持てないで無意味に感じているのであれば僕は一方通行ではないか?受容的すぎないか?その点を考えるべき所かもしれない。僕がある種この投稿を述べた所で周りには特別なことではないかもしれないが自分の中でのひとつ気をつけるべき所々として考えるべきことかもしれない。

 

そういうことをいちいち考えないのが一般論だと思うし,最もだ。またこの作文を無意味かもしれない,とは問わない。意義とかを抜きに主体的に自分がやり出したこと―それが享受であろうと発する側,行動する側であろうと何か意味を問い詰めたり,無意味に感じる時はたぶんアウトプットし過ぎかなとか,そういった視点でも見て休み,休みな面も大事にしつつあまり執着しないようにすることかもしれない。特にSNSに特別意義を持たない人であればなおさらそうだと思うし,“意味”について考えている時はあまり良いとは思わない。

ただ時にそういう視点も大事だとは思う。

 

これは実際の人間関係についてもいえる事だと思う。自然体であることが自分にとってプラスに働くと思う。ただ“意味”について考えるように何か困った時に客観的視点に立つことも大事なことだと思う。

そういったことが上手くいかないことが多いのでのでこの作文には認知的な気付きによる多いに“意味”があることだとプラスに考えつつ同時にあまりものごとについて本質的に意味が無いか有るかは棚に置く程度としたいと思う。

 

N氏とカウンセラー

第一編

 

ある朝,僕はいつものように目が覚めた。そう,いつものように。。。

そして寝室の中から外を眺めた。

 

まずベッドの上で横たわる自分を見つけた。あれ,,,

今何が起きてどうして僕がここにいて僕そっくりの人間が目を閉ざし寝ているのか?

状況がまったく掴めない。

 

ただ何故か気が冷めているのだろうか,訳も分からぬ状況にもパニックにはならなかった。

 

 

それからどれくらいたった後だろう。僕は勘づいた。

もしや幽体離脱でもしたのだろうか,,?

 

ここは夢の中なのか出来れば夢であってほしい。僕が寝室の窓際から寝ている僕を見ている。手の感触。呼吸。そして床の上に立っている感覚。正気か?眼に映る世界。それは確かに現実であるように思えた。

咄嗟に時計を見る。ふむ,4時23分で外はまだ暗い。早朝だ。

 

一体何が起きたか冷静に掴むため僕はとりあえず思い出せるだけ過去を遡ってみた。

 

 

私はN家の次男,杜平(もりへい)19歳。神経衰弱気味の草食系で人付き合いが苦手で,,,

とりあえず僕が僕を認識できている。記憶に途切れはない。一度,図書館の公共トイレで足を滑らせ頭打って気絶しただけだ。

 

昨晩はなかなか寝付けず睡眠薬を喉に通して気が付いたら寝て,さっき目が覚めて普通にベッドから降りてカーテンを開けて外を眺めた。まだ暗かった。無意識にベッドに目をやると神経衰弱の奴,そう僕がぐっすり心地よさそうに眠ってる。暗室の中でもしっかり見えた。起きた時そして起き上がる時無意識に動作し,横に誰かがいるとか幽体離脱するような(?)感覚はなかった。

どう遡ろうともいつもと何が違うことなく今日はたまたま早朝覚醒しただけだと思ってただけ。

 

おかしなことが起きたと思うと同時にある恐怖が迫ってきた。

目の前にいるもう一人の僕が目を覚ましやしないかということだ。幽体離脱云々よりとにかく漠然とした恐怖。

もし僕が幽体離脱しているのなら,そもそも幽体離脱とは魂が出て行くような認識であまり考えた事もなかったが私は幽霊になっている?だったら奴が起きたって誰が僕を見たって気付かれやしないだろう。

しかし,今僕は胸や肩や腰を触ってみるが形として僕は生きている感じを覚えるのだ。

 

あれこれ考えているうちに5時は回った。もう一人の僕「奴」はお化けか,,,

現実感がありながら非現実的なことが起きている,ただ夢ではないかと疑ってみるも時間がどんどん流れてく。

怖くなってきて僕はもう一人の僕に気付かれないようにびくびくしつつ慎重に歩をとり部屋の扉を開け,寝室から出て行った。

何かの間違いだろう半疑の中,僕は宅の1階のリビングへ階段を降りて行った。